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第1話
名前も知らない「顔見知りさん」がいる風景
家にこもってものを書く仕事をしているので、気晴らしと運動を兼ねて近所を散歩するのが日課である。自然と同じ人とすれ違うことが重なり、会話を交わすことのない「顔見知りさん」が増えていく。
皆さんにも一人くらいはいるのではないだろうか。名前も、どんな生活をしているかも分からないけれど、顔だけは知っている人。私の知り合いは、二十年以上すれ違うだけの「顔見知りさん」がいるらしい。もういい加減どちらかから声をかけてしまえばいいのにと思う長さだが、きっかけがないとそんなものかもしれない。
そんな「顔見知りさん」の中に灰色の長い毛をした犬がいる。かなりの老犬で歩くのもおぼつかないけれど、生きる意味に思いをはせているような、思慮深い目をしている。飼い主がつけた名があるに違いないその犬を、私は勝手に「ハカセ」と呼んでいた。
街に名前をつけるのは私の趣味みたいなもので、畑がある小道は「グリーンロード」、ねこじゃらしが生えている小さな空き地は「猫の遊園地」と名づけた。名前をつけると、世界とほんの少し仲良くなれる気がする。そしてその名を知っているのは私だけ(当たり前だ)ということが、なんだか楽しく、誇らしくさえある。心の中でつぶやくだけで、標識を立てたりはしないので大目に見てください。
しばらくハカセの顔を見ない日が続き、私は心配になった。体調を崩したのだろうか。ちゃんとご飯は食べているかな。散歩の途中に気をもみつつ道を曲がったら、その先にハカセが歩いていた。相変わらずヨロヨロしながら、思慮深い目で。
私は思わず駆け寄り、「ハカセ―! 会いたかったよ!」と叫んでその首筋に抱きついた。という妄想を心の中で描きつつゆっくりと通り過ぎた。実際にやったら「ハカセって何?」「誰ですか」となるのは間違いない。無害な景色でいること、それが「顔見知りさん」のオキテである。
会話は交わさないけれど、元気でいてくれると安心する。それは「顔見知りさん」のいる風景が、すでに幸せな日常として定着しているから、なのかもしれない。
文 朝水 想 イラスト 別府 麻衣
あさみ・そう
小説家、旅行作家。出版社勤務を経て、旅行書籍の編集、旅エッセイの執筆などで活動。
第46回小説推理新人賞を受賞。2025年12月17日に、小説デビュー作『お稲荷さまの謎解き帖』(双葉社)を刊行。千葉県出身。

