2026.11 No.929 掲載

第22話日光傷心秋旅行

北関東の空高く、イワシ雲と稲刈り後の田んぼの間には何も遮るものがない。日光行き特急スペーシアX、コックピットラウンジの窓際席のチケットは、先日ばあばが私にくれたものだ。毎秋恒例のいとこ会の旅行が急遽中止になったという。
「稲子、もったいないから行っといで。ただし、泊まるなら宿は自分で取るんだよ」
私は乗り慣れた浅草行きとは反対方面行きのホームに停車中の、スタイリッシュな白色の電車に乗り込んだ。

先月、中学時代の同級生の名越から言われた言葉をまだ気にしている。
わざわざ「払田って、人の役に立ちたいんじゃなくて……」と言ったのはなぜだろう。その意図を名越に問い直そうと何度もスマホを手に取ったが、いまだに連絡をできないでいる。
初めてのスペーシアX なのに、名越の言葉にあれこれ思いをめぐらせているうちに日光に着いてしまった。
いろは坂のカーブを右へ左へと揺れながらレンタカーを奥日光に走らせる。運転に集中している間は、囚われから自由になれた。
華厳の滝では、外国人旅行者に記念撮影をかって出た。
「サンキュー」
ふだんなら、笑顔で受け取るその言葉を、今は素直に受け取れない。

「うわあ、ぬるっ」
湯船に足を入れた女性が叫んだ。すぐさま水が出しっぱなしになっている蛇口を閉め、先客の私の方を向いた。
「ここの源泉、もともと熱いんだけど、こんなに薄めちゃあったまらないじゃない」
それは誤解だ。私がやったんじゃない。「入ったときから蛇口、開いてましたよ」
「まあ、そうね。長く浸かるなら、このくらいでいいか」
そう言って、彼女は馴れ馴れしく私のそばに陣取った。
少し、年上だろうか。ふっくらと丸みを帯びた首から肩にかけてのラインが、母の後ろ姿に似ている。
「もしかして、一人旅?」
温泉寺には、一人で考え事をするつもりで来た。でも、この狭い空間で話しかけられると答えないわけにはいかない。
「まあ、そんなところです」
「若いのに、渋いチョイスだね」
「……一人で考え事するのにいいなと思ったから」
「わかる~私も日光に来てここ見つけてから、時々来てるもん」
彼女はそのまま、身の上話を始めてしまった。離婚したばかりで身の振り方を考えていること、日光に移住するかどうか迷っていること。合いの手を入れる間もなく話すから、ものの数分で彼女の身の上が伝わってきた。
「40歳になったら何かになってると思ってたんだけどね〜」
湯船から上半身を出し、ふたりともへりに腰掛けた。すると、ずいぶんとゆだってきたせいか自分も口が緩んだ。
「私、誰かの役に立ちたいんじゃなくて、結局、自分の役に立てそうな場所を探してるだけなんじゃないかって、友達に言われたこと、ずっと気にしてるんです」
彼女は、そっか、それはきついね、と口調を合わせ、その先は特に何も聞いてこなかった。私は、しばらく、外から聞こえる鳥の声に耳を澄ました。
体の熱が冷め、再び湯船に浸かると、彼女が口を開いた。
「東照宮、行った?」
日光東照宮は中学の修学旅行以来行ってはいない。
「私、好きなんだよね。あそこにいるの」
「眠り猫、覚えてます」
「あの猫、どんな意味があると思う?」
「意味⁉」
そういえば、修学旅行でガイドさんに教えてもらった気がする。なんだっけ……。
「あれ、可愛く眠っているようで臨戦態勢なんだって。寝てるように見えて、すぐ飛びかかれるの」
「…… 寝てるふりしてるってことですか?」
「本当に寝ているんだと思うけど」
「じゃあ、寝ながら戦えるってこと?」
「たぶんね。役に立ってたんじゃない?」
眠り猫、どんな姿だったっけ?
「じゃあ、日光楽しんでね」
そう言って彼女は先に出て行った。
その晩、奥日光の宿の一室で名越宛てのメッセージを打った。送信ボタンはまだ押さない。明日は、眠り猫を見に行く。


プロフィール

作朝比奈 千鶴(あさひな・ちづる)

文筆家、脚本家。トラベルライターのキャリアを経て、令和7年度橋田賞新人脚本賞 短編部門 入選。TVer、TBSFREE、U-NEXTにて受賞作「へりとわらし」配信中。

画ラニー・イナモト