2025.6 No.912 掲載

第6話

「瑠璃、そろそろ出ようよ」

 義理の妹、てむちゃんは今日から新しいアルバイトを始める。勤務地は、流山おおたかの森駅そばのデパート。以前、ファミリー層の人口増加が著しい場所だとネットニュースで話題になった土地だ。

 春日部から出やすい大宮や上野、浅草なら、バイトする場所はたくさんありそうなものなのになぜ自宅から40分もかかる流山へ?と聞くと、「ファンに見られないように」と埼玉の元地域アイドルらしい答えが返ってきた。

 とはいえ、私には私の毎朝のルーティンがある。

「反対方向だから、一緒に出なくてもいいんじゃない?」

 とてむちゃんを先に行かせようとするも、「通勤気分を一緒に味わいたい」と駅まで一緒に歩きたがる。しょうがない、今朝は身だしなみを整えることができないまま“推し”の前を通過することになってしまった。

 東口ロータリーから、駅の有人改札が見える。私の推し、制服姿の宮沢さんがいつもと変わらずに立っている。こちらに気付くと、微笑みながら会釈をしてくれた。ふふっ、宮沢さんの輝くような白い歯と、笑うと頬に出るえくぼに心が躍る。足取り軽く改札を通過すると、急に腕を引っ張られた。重い。驚いて振り返ると、仏頂面のてむちゃんが私の袖を引っ張っていた。

「ねえ、あの駅員さん、妙に馴れ馴れしくない?」

 先日、駅を利用した際にもてむちゃんに笑顔を向けてきたと言う。てっきり自分のファンかとアイドルらしい作り笑顔を返したが、今朝は私にも愛嬌を振りまいてきたので不審に思ったのだと。

 なんだ、宮沢さん、てむちゃんにまで微笑むんだ。一気に気持ちが沈んでしまった。そんなわけで1日中気の抜けた炭酸飲料のような気分でやり過ごした。こんな日は早く帰って庭の梅でジャム作りをするに限る。

 けれどもそんな目論見は、帰途の春日部駅で一瞬にして消え去った。ホームにいる宮沢さんの姿を見つけてしまったのだ。

 胸の奥から湧いてきた泡がパチンパチンと弾け出す。何か話しかけたい。でも、何て言ったらいいの?

「この時間はホームなんですね」

 勇気を振り絞って話しかけた。

「そうなんですよ。そうだ、今朝一緒にいらした方、例の藤まつりのポスターの妹さんですよね!」
「え」

 急な宮沢さんの言葉に驚いた。なぜ、知っているの?

「てむちゃん、僕、以前から推してたんです。いやあ、払田稲子さんって、てむちゃんの本名なんですね」
「は、はあ……」
「金髪になっていて驚きました。似合いますねって、どうかよろしくお伝えください。応援してますって」

 弾けた泡は急に沈み、濁った音と共に消えていった。

 私の推しはてむちゃんを推していたのだ。この事実、耐え難い……。

 帰宅すると、てむちゃんはソファの上にあぐらをかき、枝毛を切っていた。そのだらしなさ、宮沢さんに教えてあげたい。

「なんでもう帰ってんの? 早上がり?」
「金髪じゃダメだって帰された」
「えっ面接、なかったの?」
「うん。サイトの登録写真が黒髪のままだったから」

 あまりに真剣味のない求職活動に腹が立った。だけど、これで毎朝宮沢さんと接触する時間を邪魔されずに済むともいえる。よし、今夜のジャム作りはなし。お風呂上がりのスキンケアに全力を注ごう。

 ところが、翌朝から宮沢さんの姿が消えた。1週間を過ぎても有人改札は空席のままだった。……私は、駅前で身だしなみを整えることをやめてしまった。

 数日後、ようやく有人改札に新しい駅員が立った。浅黒い肌の男性は、なんとなくチャラっとして見えた。駅員はこちらに気付き、会釈をしてにっこり微笑んだ。

 ──歯が白く、えくぼがある。ん?宮沢さん?

「そんなに焼けてどうしたんですか?」
「ははは、新婚旅行でハワイに行って、うっかり焼いてしまいました」

 ──その情報、知りたくなかった。

 その夜、私は近所に配れるくらいの梅ジャムを作った。

「瑠璃〜、梅ジャムでチーズケーキ作ってよ〜」

 いいんだ、私には、てむちゃんがいる。


著者プロフィール

朝比奈 千鶴(あさひな・ちづる)

旅行作家、脚本家。2021年日本シナリオ作家協会主催「新人シナリオコンクール」佳作受賞。現在は、小説執筆のほか、脚本家としてテレビや映画の仕事に携わる。