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「私とスペーシア」エピソード

SPACIA X

私とスペーシア エピソード公開中!

スペーシアXにつなぐ物語「私とスペーシア」キャンペーンとして、
心に残る100系スペーシアのエピソードを募集。
皆様の家族の思い出・通勤や通学・人生の節目など、
心に残る100系スペーシアのさまざまなシーンをお寄せいただきました。
たくさんのエピソードの中から、いくつかご紹介いたします。
これまでも、これからもスペーシアがみなさまの思い出の1ページに寄り添える存在でありますように。

エピソードのご紹介

初めて乗った
ドキドキのスペーシア

埼玉県 40代 ゆきくんさん
石川県に住んでいる両親が、初めて埼玉県にある私の家に遊びに来ることになりました。
両親とスペーシアに乗り、駅に到着して降りる時のことです。電車とホームの間が離れている所があり、父が先に降りて私にスッと黙って手を差しのべました。
一瞬「えっ?」と思いましたが手を握ってドキドキしました。父の手はゴツくて温もりがあり、この手で一生懸命働いて私たちを支えてくれたんだと思うと涙が溢れてきました。忘れられない一生の思い出です。
神奈川県 40代 つばめさん
もう30年以上前の事。今は亡き母は、倒れた父に代わり50代後半で再就職。鹿沼市から当時の今市市に通勤していました。
ある時『今日はスペーシアに乗って帰ってきた。初めて乗ったよ。車掌さんに個室はどんなか聞いたら今は空いてるからって見せてくれたよ!凄いね!』と帰宅後、興奮気味に話したことを思い出す。
歳をとってからの就労で疲れもあっただろう。そんな母に一時の安らぎと優雅さと優しさをありがとうございました。
東京都 20代 いずみんさん
15年ほど前、当時通っていた体操教室主催のスキー合宿で初の鬼怒川温泉に。
家族も来ると勘違いしていた私はスペーシアに乗ってこないことに疑問を感じながら出発。鬼怒川温泉ではスキーどころか寂しさで大泣き。ほろ苦い初めての親元離れた旅となった。
成長した今でこそ、日光や鬼怒川の一人旅を幾度となく楽しんでいるが、スペーシアを見るたびに当時の可愛かった自分を思い出し懐かしい気持ちになる。
東京都 20代 大学生の梅ちゃんさん
寝坊した。遅刻寸前だった。
当時新鹿沼駅に住んでいた高校生の私は、都心の大学に出願していた。ついに第一志望の受験だ!と前日に意気込みすぎたのか、なかなか眠りにつけず、寝坊してしまった。鈍行列車じゃもう間に合わない。「やばい!」。駅に着いてとっさに乗り込んだのがスペーシア100系だった。生まれて初めての特急電車への乗車だった。おかげさまでいま私は、第一志望だった大学の大学生だ。

スペーシアに乗って
また会いに行きたい

千葉県 30代 ふぅさん
祖父母の家に行く時は必ずスペーシアに乗っていた。約一時間半の電車の旅、あっという間の時間。
下今市駅に着き、ホームに降りると改札口から今か今かと顔を覗かせている祖父の姿が必ずあった。雨の日も雪が降った日も、暑い日も、必ず祖父は駅に迎えにきてくれて改札口から私達を探してくれていた。
今はもう見ることのできない改札口に立つ祖父の姿。それでも私達はまたスペーシアを降りたら改札口に立つ祖父の姿を探すだろう。
埼玉県 50代 さんたももそうりさん
春日部に移住以来、都内の職場からの帰りには、スペーシアをよく利用するようになり、時間帯が合えば主人と一緒に乗って帰った。
警察官だった主人とは、一緒に旅行することもほとんどなかったが、思い立って、日光に行ったことがあった。会社帰りとも違う、春日部から日光までのスペーシアの心地良さ。あっという間に着いてしまってのんびりしている主人に着いたよと言う私。今でも乗る度甦る亡き主人との大切な私の思い出の一コマ。
栃木県 50代 父と娘の物語さん
東京に下宿していた私は、家族の待つ実家へ週末スペーシアで帰省していました。斬新な車両に心ときめいたものです。
一方、父は、帰ってくる私を駅で心待ちにし、日曜の夜、東京へ向かう私を、車両が見えなくなるまで見送ってくれました。既に父は他界しましたが、スペーシアに乗るたび当時気付かなかった父の愛情が身にしみます。私たち親子をそっと見守ってくれたスペーシア、そしてお父さん本当にありがとう。
東京都 20代 なんばーえいとやじさん
初めての乗車は生後数ヶ月。特急スペーシアは僕にとって、栃木にいる祖父母の家へつながる特別な電車でした。
乗るのは北千住駅から時間は決まって夕方で、夕焼けに照らされた荒川を渡って、だんだん暗くなる東武沿線を走る景色が好きでした。ガタンと自動ドアが開いて、新鹿沼駅に降りて感じた、夏の暑さも冬の寒さも、20年分覚えています。この春結婚した妻と一緒に、早くまたスペーシアに乗って祖父母に会いに行きたいです。

あの頃いつもスペーシアが
そばにいた

栃木県 20代 ご飯ちゃんさん
「私とスペーシア」という題名を聞いただけでも昔を思い出してほっこりしました。
小さい頃野球をやっていたので、東京方面に試合で向かう時にお父さんとよくスペーシアを利用していました。
勝って早く帰って報告したい時も、負けて怒られながら帰る時もスペーシアは同じスピードで帰ることが当時の僕は嫌だった気がします。
それも良い思い出で子供の頃から電車が大好きです。今度はXで自分の子供とたくさん思い出をつくれたらいいな。
埼玉県 30代 次期鉄ちゃん候補のママさん
出産のため帰省し、父と散歩したとき。
スペーシアを見て、父は「母に内緒でたまのご褒美として仕事帰りにスペーシアで晩酌していた」と茶目っ気たっぷりに言った。初孫が産まれて100日後、父は天国へ。
一歳半になった電車好きの息子と母と3人で散歩したとき。スペーシアを見て母がポツリ。「お父さんが定年後、旅行をプレゼントしてくれて。でもスペーシアの中でいつも通りケンカしたよ」と。私が父の話を伝えると、母は「バレバレよ」と泣き、笑って言った。
埼玉県 30代 おスペさんさん
今から16年前、就職して最初の勤務地が日光でした。当時の私は日光の寒さにも慣れず、毎週のように都内に遊びに出ました。スペーシアは、当時の私には「通勤車両」とも言える電車でした。
特に、日曜夜に帰る時に乗った、浅草21時発の「けごん」は、思い出深いです。慣れない土地で慣れない仕事に向かうことへの不安と、乗客の少ない静まり返った車内も相まって、心細い気持ちで席に座ったことを今でも懐かしく思い出します。
東京都 60代 さっちさん
2006年から2015年まで、主人が単身赴任のため、浅草から新高徳まで仕事が終わってから、毎月2回金曜日の夜に通いました。
東北の震災の時も、浅草のロッカーに荷物を置いて新高徳までスペーシアで行く予定でしたが、震災で列車が止まり浅草駅が封鎖され行く事はできませんでした。
10年以上も毎月利用させていただき、帰りの日曜日の浅草駅までのスペーシアは観光の人達ばかりでその中で寂しく泣いていたのを思い出します。
千葉県 40代 やしちさん
何度も行った鬼怒川&川治温泉。12年前の冬のスペーシア個室は行きと帰りでは二人の距離が全然変わりましたね。思いもよらなかったプロポーズはシャイな貴方からの大きな贈り物で、行きよりもとっても暑かった気がします。
今でも個室に乗るとあの時のきゅんとした思いと、スカイツリーのだんだん出来上がっていく姿を思い出します。
神奈川県 60代 まさちゃんさん
スペーシアを利用して、栃木駅や下今市駅で下車し、取引先に向かう日々。車中では、ビール片手に日光や鬼怒川に旅する人々が羨ましくてね。帰路仕事がうまくいき、車中でパソコンを使って業務報告。その後はご褒美のビール。周りの客も楽しくやっている。これで俺もリラックス、極楽である。快適な走りで寝てしまい、北千住駅を乗り過ごし浅草まで行くが、それも一興である。今度は仕事抜きで日光・鬼怒川に行きたいと願っている。
東京都 30代 みすみんさん
高校時代、栃木から東京まで予備校に通っていました。行きは快速電車、帰りはスペーシアを利用。生物の講義を担当していた先生が同じ栃木県在住で、地元の話題で盛り上がり、一緒になった帰りのスペーシアで論述問題の添削をしてもらったこともありました。その甲斐あってでしょうか、生物が得意科目になり、流れ流れて今は小児科医として働いています。自分にとってスペーシアは観光特急というより受験期の支えでした。

旅のハプニングとスペーシア

埼玉県 60代 草加のピッコロさん
2019年夏、6年生担任の私は児童と日光の修学旅行に出発。浅草橋駅から都営地下鉄で浅草駅、歩きで東武浅草駅へ行き、スペーシアに乗るはずでしたが、浅草橋駅に着くと、[ 送電の不具合で電車は動きません ] というアナウンス。スペーシアに乗り遅れる!なんとかして東武浅草駅に行くぞと頭脳をフル回転。歩いて秋葉原駅へ、日比谷線で北千住駅。浅草で乗る予定のスペーシアに北千住駅で乗車。ドキドキ体験のスペーシアでした。
千葉県 40代 忍者になった娘の父さん
2012年冬にスペーシアに乗って妻の職場旅行に家族で参加しました。行先は東武ワールドスクウェアと日光江戸村。特に江戸村で娘たちは大興奮でした。次女が鯉に餌をやっていた所、身を乗り出し過ぎて池にドボン。すぐに引き上げてもらいましたが、全身ずぶ濡れ。着替えが無かったため、江戸村の中で探し、忍者服を発見。フルセットで購入しました。帰りのスペーシアで周りの乗客の視線を浴び、自慢げな娘の顔が忘れられません。

スペーシア大好き!

埼玉県 60代 大宮 孝さん
幼かった息子がぐずり始めると、急ぎエレベーターを降り、マンション前の線路際に肩車で陣取った。眼前を通過する電車に手を振る息子。運良くスペーシアが通過すれば、さっきまでの泣き顔が嘘のように晴れ、もみじのような手を精一杯広げ、お気に入りの流線形とオレンジカラーに歓声を上げた。
今、スペーシアに乗る度に、逞しく成長した息子の姿が当時の光景と重なり、懐かしい思い出として甦る。ありがとうスペーシア!!
東京都 30代 3時のおやつさん
線路沿いが散歩コースのわが家。娘は東武線を見ながら育ちました。公園に行けば電車が通るたびに遊びを中断し、小さな手を一生懸命振ってバイバイしていました。
ある日、金色に輝きながら走り過ぎる電車を指差して、嬉しそうに叫んだ言葉は「ぺーしあ!にっこうもうで!」。そんな言葉も話せるの!とビックリ。喋り始めて半年程の頃でした。娘の成長に一喜一憂する目まぐるしい日々の中で、記憶に残っている大切な想い出です。
東京都 30代 やすママさん
電車好きの息子。河川敷に行っては電車を見るのが日課。スペーシアやリバティなど特急列車が通るたびに興奮していました。夏休みに念願のスペーシアに乗って日光へお出かけしました。
日光に着いて、スペーシアと一緒に家族写真を撮ろうと、車掌さんに撮っていただくよう頼みました。
そしたら車掌さんが被っていた帽子を息子に被せてくれて、写真を撮ってくれました。本人は車掌さん気分で大喜び、素敵な思い出ができました。
東京都 40代 あっくんさん
結婚して、8年前にスカイツリーの見える下町に引っ越し、5年前に息子が誕生。
毎日踏切から電車を眺める日々、初めて覚えた言葉は「すぺしあ」、2歳で初めてスペーシアに乗って日光旅行へ。
車内に入ると「スペーシアはどこ?」と泣きだし、そうきたかと大慌て。
4歳になりホームでN100系スペーシアのポスターを見つけては「新しいスペーシアはいつかな?」と心待ちに。来年の夏のお誕生日はスペーシア Xでまた日光に行こうかな。

スペーシアがつなぐ想い

埼玉県 60代 らんさん
最初の旅行は十年以上前、父が急逝して少し経った時に誰からともなく計画があがったから。
母と姉二人と私。女四人で行く日光と鬼怒川温泉への旅。毎年泊まる宿を変え、東照宮や渓流下りなど行き先を変え、でも同じ時期にスペーシアに乗って旅をしました。
一緒の時間を過ごす大切な恒例行事。五年前に母も亡くなりましたが、今でも三姉妹で続けています。スペーシアの一つ空いた席に母の姿を思い出す素敵な旅です。
栃木県 50代 このりさん
28年前東京の大学に通っていた私は東武鉄道の快速電車を利用していた。往復4時間電車に揺られ、車窓から四季を感じる快適な時間だった。
そして卒業式を迎え袴を着て家を出る時、父が「卒業おめでとう」と言ってスペーシアの指定席券を渡してくれた。金銭的にも苦労かけて申し訳なく思っていたのに、父は最高のプレゼントを贈ってくれた。
埼玉県 30代 なかっちさん
約12年前、春日部に住む上司と、浅草駅からスペーシアに乗車。
その日は、夜勤明けで既に夜。浅草駅構内の売店でビールを買い乾杯。気付いたら、降車予定の春日部駅でドアが閉まり出発!次の停車駅は栃木!すると上司が「明日休みだし、鬼怒川で一泊するか」。鬼怒川のラーメン店で、上司と話した会話は楽しい思い出です。70歳を過ぎた退職した元上司と、今も年一回会えるのは、スペーシアで寝過ごしたあの1日のお陰です。
埼玉県 30代 さとぴさん
物心ついた頃から地元を颯爽と駆けるスペーシアへの憧れ。
幼き日の私はもちろん親友も気持ちは同じで、いつの日かの将来の旅にと約束し、思いを馳せました。
あれから三十有余年、今なお私たちの憧れとして走り続けてくれているスペーシア。
大人になりある時から、水入らずのコンパートメントでお酒を酌み交わし語らうことが毎年の贅沢となりました。
変わらぬ友情、変わらぬ憧れ。ずっと私たちの絆と共に走り続けてくれてありがとう。
埼玉県 50代 絵描きのおじさんさん
三十年前にスペーシアで出会った高齢夫妻に「毎年色が変わるんですよ」と自ら描いた紅葉の絵を見せてもらって感動し、以来毎年夫婦で日光を訪れ、描き続けています。
先日スペーシア車内で過去の紅葉の色を見比べていたところ、若い夫妻が興味を示していたので毎年色が変わると教えてあげたところ、「私達も描いて残したい」と目を輝かせていました。自分たちの過去を見るようでとても不思議な気持ちになりました。
東京都 40代 あきこさん
「日光に行きたいな」一人暮らしの母がつぶやいた。連れていこう、日光へ。乗りたがっていたスペーシアで。
久しぶりの母娘旅行。窓際の席は母に。景色を見ながら話は弾む。時間は進む。
母はわたしが子どもの頃、いつも窓際に座らせてくれた。こんな気持ちだったんだね。あたたかい。気づかせてくれてありがとう、スペーシア。またよろしくね。

スペーシアを支えます

30代 検修区助役
私が100系スペーシアの車両整備に従事し始めたのは13年程前からになります。
南栗橋車両管区に配属になり、父親と同年代の方々と一緒に検査を行っていると、ある一人の方が、
「検査は定期的に行い大変だけど、スペーシアを初めて利用するお客様に感動を届けるためにも抜け目なくやれよ!」
と言われました。
いま私は、車両整備・清掃・運用などの計画・管理業務を行っていますが、今でもその言葉を忘れずに日々精進しています。
40代 運転士
スペーシアの乗務の中で、忘れることが出来ないのが2011年3月。
東日本大震災から数週間後、春休みに入るも観光需要は無く特急スペーシアも運休していました。
東北方面への鉄路がまだ開通していない中、被害の少なかった東武鉄道~野岩鉄道~会津鉄道で会津地方まで鉄路が繋がり、首都圏と会津地方の速達性を高めるために特急スペーシアも数往復ですが運転を再開することに。
ある日出勤すると、スペーシアが走るというので、担当になりました。
まだまだ沿線に地震の被害が見られる中、首都圏と会津地方を結ぶために担当したスペーシアは、今までの観光のお客様はいませんでしたが、こんな時でも移動しなければならないお客様を乗せて、スペーシアは走りました。
私自身、東北への思いが重なり鉄道が走っていることの大切さを再認識しました。
スペーシアに乗務して数十年いろいろな事がありました。東武鉄道の運転士としてスペーシアに乗務していること、とても幸せに思っています。
50代 車掌
スペーシアがデビューしたのは1990年、私が東武鉄道に入社した翌年であり、長きに亘り鉄道で働く人生を共に歩んだ同期の様な存在です。
デビュー当時はバブル末期であり豪華な設備と華麗な車体スタイルで、多くの鉄道ファンを魅了したのはもちろん、「担当乗務員になりたい!」と若手社員の憧れと目標になる車両でした。
私は当時駅係員でしたが車掌を目指しており、スペーシア担当車掌になれる日を目標としておりましたが、夢が叶うのは車掌になってから12年後でした。
初めて乗務した時は緊張感で汗が止まらず、終点東武日光駅に着いた頃には背中がびっしょり、担当乗務員になれた嬉しさより、看板列車を担当し、お客様にご案内する難しさを痛感しました。その日の事は今も忘れられません。

それから19年が過ぎ、今でもご案内の難しさを感じる事は変わりませんが、お客様に「ありがとう」のお声や笑顔をいただけたり、お子様から手を振っていただくことが私の充実感です。
安全・快適が鉄道のサービスの根幹であり、「華の同期」のスペーシア、後輩のリバティやスペーシア Xに負けずに、これからも一緒に安全・快適を提供し走り続けよう!
スペーシアは登場から32年経ちましたが、変わらずの応援をお願いいたします。

ラジオ放送のご紹介

FMラジオ局NACK5の番組「GOGOMONZ」で
ご紹介させていただきました。

2022年11月の毎週火曜日15時05分~
「東武鉄道 私とスペーシアのストーリー」

エピソードブック

「エピソードブック」は、
東武博物館や100系スペーシアの
座席背面ポケットにて、
2023年2月17日以降順次配布しております。
※JR相互直通特急(スペーシア日光・スペーシアきぬがわ・日光・きぬがわ等)の座席背面ポケットへの配布はございません。

スペーシア Xとは