2025年3月14日、東武鉄道が手がける日本酒「車窓」の新酒が登場した。昨年7月に発売された第一弾が瞬く間に完売し、その人気を受けて進められたこのシリーズも、今回で第四弾を迎える。今回の「車窓」は、「日光の社寺」がユネスコ世界文化遺産に登録されて25周年を迎えたこと、ならびに「伝統的酒造り」が新たにユネスコ無形文化遺産に登録されたことを記念した特別な一本だ。酒米には、栃木県鹿沼市で育てたイセヒカリ米を使用し、仕込み水には古くから醸造家の信仰も厚い、「酒の泉」日光二荒山神社の二荒霊泉を採用した。
なぜ東武鉄道は既存の日本酒を仕入れるだけではなく、ゼロからオリジナルの酒をつくるのか? そこには、鹿沼の地に生まれた奇跡的な巡り合わせと、地域を愛する人々の強い想いがあった。日本酒ライター・関友美が、東武鉄道の榎本貴夫氏と小林醸造の社長・小林一三氏にその背景を聞いた。
小林醸造(前日光醸造所)は、後継者の不在により休眠していた池島酒造(栃木県大田原市)を、栃木県鹿沼市の酒販店・小林酒店の小林一三社長が引き継ぎ、廃校(旧上粕尾小学校)を再活用して、鹿沼市におよそ37年ぶりに清酒蔵をよみがえらせた酒蔵です。現在は、池島酒造から受け継いだ「池錦」や、小林酒店のプライベートブランドである「鹿沼娘(かぬまむすめ)」を製造するほか、酒米の栽培から仕込み、瓶詰めまでの一連の工程を自ら体験できる、注文ごとのオーダーメイド酒づくりを事業の柱として展開しています。
東武鉄道・榎本貴夫(以下、榎本氏) 「車窓」は、鉄道旅と日本酒の魅力を掛け合わせることで、沿線地域の新たな楽しみ方を提案したいという思いから始まりました。これまでにもいくつかのバージョンを出してきましたが、ありがたいことに、どれもご好評をいただいています。そんな中で、今年は「日光の社寺」が世界遺産に登録されて25年。この記念すべき年に合わせてつくったのが、今回の「車窓 SHA-SŌ」です。
―もともと「車窓SHA-SŌ」というシリーズは、どういった経緯で始まったのでしょうか?
榎本氏 東武鉄道では、沿線の企業や生産者と連携して、地域の魅力を伝える商品づくりに取り組んできました。たとえば栃木のいちごを使ったスイーツや、日光湯波を使ったおかきなど。今回の日本酒もその一環で、日光にゆかりのある素材や酒蔵と組むことで、この土地ならではの魅力をしっかり表現したい、と企画しました。
お酒でいえば、すでにスペーシアX車内でも、地元限定のクラフトビールを販売していて、ご好評いただいています。日本酒なら、米や水など地域の素材そのものを活かせる分、より深く“地元”を表現できる、と考えました。
―「車窓 SHA-SŌ」という名前には、旅の情景が浮かぶような響きがありますね。
榎本氏 名前を聞いて、“列車に乗って旅をしたいな”と思っていただけたら嬉しいですね。車で旅行するとドライバーさんが飲めない、ということもありますが、鉄道旅ならその心配もありません。鉄道とお酒は大変相性がいいんです。
榎本氏 男体山(なんたいさん)をご神体とする二荒山神社は、古くからこの地に根付いた山岳信仰の中心であり、栃木や日光、鹿沼の人々にとっても非常に大切な神社です。境内には「知恵の水」「酒の水」「若水」と、三つのご利益があるとされる湧き水「二荒霊泉」があります。栃木県内の蔵元が、年に2回参拝して酒づくりの安全を祈願し、種水として拝戴する風習がある神聖な水です。
小林醸造・小林一三(以下、小林社長) 今回はその二荒霊泉を300リットル、特別に汲ませていただき、運び、洗米以外のすべての工程で使いました。この神聖な水を酒づくりに使わせていただける、というのは本当に光栄なことです。
―そうした中で、霊泉は非常にやわらかく、わたしはこれまで全国の多くの酒蔵を取材してきましたが、これほどまでに成分のやさしい軟水で仕込まれたお酒は、見たことがありません。醸造の難易度の高さを想像すると、それだけで今回の挑戦の価値が伝わってきます。
小林社長 仕込み水にやさしい軟水を使用すると、酵母の活動が鈍くなりやすいことから、こうした水を避ける酒蔵もあるかもしれません。
―それでも問題なく醸造できたのは、小林醸造だからこそ、といえるでしょう。 小林社長は東京農業大学・醸造学科の出身で、杜氏の寺澤圭一さんは帯広畜産大学を卒業後、東京農業大学・醸造学科の修士課程を修了した経歴を持ちます。ふたりはともに、発酵学の第一人者である小泉武夫・東京農大名誉教授の教えを受けた“門下生”でもあり、その知識と技術力には確かな裏付けがあります。
小林社長 さらに同じ東京農業大学の先輩が経営する愛知県の蔵との技術連携があり、これまでに様々な水質での醸造実験を行い、詳細な発酵データを蓄積してきました。その知見をもとに、やさしい軟水でも問題なく発酵が進む条件をシミュレーションできていたので、恐れず使うことができました。
―千年を超えて地元の人々に大切に信仰されてきた神様の水と、現代の発酵技術が出会って生まれた結晶、というわけですね。
榎本氏 今回は、「日光の社寺」がユネスコ世界文化遺産に登録されたことを記念した特別な一本です。二荒山神社の霊泉を仕込み水に使うことも決まり、だったら、使うお米もそれにふさわしいものを、と考えて、真っ先に思い浮かんだのが「イセヒカリ」でした。
小林社長 イセヒカリは、栃木県鹿沼市で栽培されたものを使用しています。実は「イセヒカリ」は、一般流通はせず、奉納用として伊勢神社からほかの神社へと頒布されるもの。そこで伊勢神宮と繋がりの深い栃木県内の神社を通じて、種籾を分けていただいて、酒蔵を継承した当時から栽培していた米でした。
ー神の水に、神の米。まさに特別な組み合わせです。昨年末、「伝統的酒造り」もユネスコ無形文化遺産に登録されました。ちょうどいいタイミングですね。
榎本氏 日本酒が本当に大好きで。小林酒店に伺ったことがあって、地元であれだけ特徴のある品揃えをしている酒販店はなかなかないなと、印象に残っていました。だから新聞記事で、「あの小林さんが醸造を始めたのか」と知って、とても興味を持ちました。
―オーダーメイドという形で、酒づくりを請け負うスタイルは、かなり先進的ですよね。
榎本氏 そう思います。地域に根ざしながらも、新しい発想で日本酒をつくっている。その姿勢にとても共感しました。実際に今回の酒づくりでも、田植え、洗米、蒸した米を冷ます作業、そして上槽まで、私たち東武鉄道のメンバーも現場に入らせてもらって、一緒に工程を体験しました。現場の熱量を肌で感じることができて、感激しました。
小林社長 うちは「酒づくりはエンターテインメントだ」という理念でやっています。オーダーメイドを引き受ける時には、酒づくりの「米、精米歩合、仕込み水、種麹、酵母、酒母、上槽(搾り)方法、酒質」など、細かい要素を相談しながら決めます。でも、基本的にはお客さまの要望を断らない。田植えから上槽まで、希望があればどんどん現場に入ってもらいます。すべてを体感してほしいんです。
わたしたちはあえて山の中の不便な場所に蔵を構えていますが、それは、鹿沼に国内外から“わざわざ来てもらえる”蔵にしたかったからなんです。
―小林醸造のチャレンジ精神に、東武鉄道が共鳴したということですね。
榎本氏 はい。実際に打ち合わせを重ねるなかでも、「こんな酒にしたら面白いかも」と、前向きなアイデアがどんどん出てくるんです。お互い、日本酒と地元に強い思いを持っているからこそ、毎回の打ち合わせが本当に真剣で、妥協なく、でも心から楽しめる空気がいつもありました。
小林社長 そうですね。榎本さんは本当に日本酒を愛する人で、喋っていると、次々に発想が広がっていって、やっぱり楽しいですもんね(笑)。
―グラスに注いだ瞬間、立ち上る香りが“和ナシ”のようにフルーティ。さわやかで美しく上品。ひと口含むと、シルキーな口当たりで、酸味が柔らかく、甘さと一緒にふわっと広がって、なんとも心地よい味わいでした。
小林社長 搾った直後から、酸味の角がなくて、きれいな味に仕上がりましたが、火入れを経て、より落ち着いた味わいになりました。二荒霊泉の水のやわらかさもあって、全体としてとても優しい印象になったと思います。
―おだやかな米の甘みが感じられて、ほんとうに素直な味わいですね。気取らず飲めるけど、きちんと造りの良さが伝わってくる。白麹を使っていると聞いていたので、もう少し酸が立つのかと思っていたのですが、そんなことはなく、飲みやすさに驚かされました。鉄道旅といえば、昼間に移動することが多いですが、ゆっくりと車窓を眺めながら味わいたくなる、そんな一本だと思いました。
榎本氏 ありがとうございます。まさにその「車窓の風景に寄り添うお酒」というのが、最初からのテーマで、ラベルにもスペーシアXの窓から見える男体山、という風景をあしらいました。そう感じていただけてとてもうれしいです。