宿場町の風情を今に残す日光街道沿いの街「北千住~春日部エリア」

古きよき街道の情景に思いを巡らす街歩き

江戸幕府の開府の折、徳川家康によって整備された五街道の一つ「日光街道」。起点の日本橋から終点の日光まで約140kmある街道には幕府から許可を得た21の宿場が配置され、日光に向かう旅人や江戸へ商品を運ぶ行商人たちをもてなしてきました。

にぎわいを見せていた日光街道でしたが、明治以降には政府の鉄道・道路事業により各宿場町も近代化され、昭和の時代になると東京近郊の北千住~春日部の旧宿場町はベッドタウンとして発展しましたが、今も当時を思わせる史跡や建造物が点在しています。

ここでは、街道沿いの街としてにぎわっていた時代の北千住や春日部に残る当時の面影をピックアップしてご紹介します。

『おくのほそ道』の起点とも言われる北千住

日光街道の最初の宿場「千住宿」(北千住駅周辺)は江戸―東北間の人・流通の玄関口として栄え、幕末には約1万人が住む江戸近郊でも最大の宿場町として成長しました。宿泊施設はもちろん、八百屋や魚屋、大工、鍛冶屋などが軒を連ね、日光・奥州へ向かう旅人や参勤交代の大名行列の一団が千住に立ち寄りました。奥州・北陸の紀行文『おくのほそ道』で知られる松尾芭蕉の約150日におよぶ旅も千住から始まったと言われています。

1689年3月27日、千住の地に着いた芭蕉はこれから向かう遥かな旅路を思い、矢立初めの句(旅の始まりの句)として

行春や 鳥啼魚の 目は泪

と詠み、見送りに来てくれた人々との別れを惜しみました。千住を発った芭蕉は日光街道を北上し、出発から3日後の4月1日に日光に到着したと伝えられています。この句を詠んだとされる場所は現在の千住大橋の近くといわれており、付近には矢立初めの句を刻んだ記念碑や芭蕉の銅像が建てられています。

現在、宿場町があった場所は飲食店を中心に活気あふれる店舗が集まる「宿場町商店街」として新しい姿を見せている反面、当時の歴史をあらわす貴重な建物が今も大切に残されており、在りし日の宿場町の面影を感じさせてくれます。

草加松原に草加せんべい...旧日光街道の歴史を残す草加の街

2番目の宿場町となる「草加宿」では松並木の美しい風景を楽しめます。1683年に行われた綾瀬川改修の際に植樹された松並木で、今も往時の風景を感じさせてくれていますが、高度経済成長期には車の排ガス・道路舗装工事などの影響を受け、一時は約800本あった松の木が約60本まで減少しました。

危機感を持った地域住民や市民団体は、400年続く松並木を残そうと懸命に保護・捕植活動を続け、今では約630本まで回復しています。そして2014年には「おくのほそ道の風景地 草加松原」として国の名勝に指定されるほどになりました。綾瀬川にかかる2対の太鼓型歩道橋「百代橋」「矢立橋」は浮世絵から飛び出してきたようなたたずまいです。天気の良い日には松並木と橋が織りなす趣あふれる景観を味わいながら散策をする人や、写真に収めようとする人たちの姿も見られます。

草加でもう1つ有名なのが「草加せんべい」。良質のうるち米と伝統の製法で焼かれた、今や全国各地で親しまれているお菓子の一つです。一説では、草加宿で茶屋を開いていた「おせん」というおばあさんが考案したと言われています。草加の旧日光街道沿いにはせんべい屋が密集していて、中には手焼き体験ができるお店も。しょう油の香ばしい匂いが食欲をそそるせんべいを食べながら松並木の遊歩道を歩くのは、草加ならではの散策の楽しみ方です。

越谷から春日部へ。日光街道の散策は始まったばかり

北千住・草加を中心に紹介しましたが、草加の先の宿場町にも散策できるスポットはたくさんあります。3番目の宿場・越谷では地元企業と連携して昔の面影を残す古民家・商家などを保存する事業が展開され、次の春日部では当時の宿場町に関する歴史資料や町並みの模型が展示された郷土資料館など、各地で日光街道の宿場町を未来へ残そうとする取り組みがなされています。

身近な場所にも、古き良き時代の面影や歴史を感じるスポットはたくさん残されています。少し早く起きた日には、かつての宿場町のにぎわいに思いを馳せながら足を進めてみてはいかがでしょうか?

※2019年9月現在の情報です