正月は「だるま市」で賑わう喜多院は徳川将軍家ゆかりの名刹

徳川家と密接な関わりがあった喜多院の歴史

喜多院は、天長7年(830)慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって「無量寿寺」という名前で創建されました。天台宗の僧である円仁は、中尊寺をはじめとした東北の寺の数々を創建したことや、比叡山延暦寺の中興の祖として知られています。

その後、無量寿寺は一時荒廃しますが、1296年に尊海僧正が再興。仏地院(中院)、仏像院(北院)、多門院(南院)を建立しました。またこの時に、円仁よりも後の時代に比叡山延暦寺を再興した慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)を祀りました。この良源が、川越のだるま市の起源となっています。

さらに1599年、慈眼大師天海(じげんだいしてんかい)が無量寿寺を継ぎ、徳川家康の支援を受けるようになったことで、北院は「喜多院」という名前を授かり、大きな信仰を集めるようになりました。1638年の川越の大火で山門以外は焼失しますが、三代将軍家光が江戸城紅葉山から別殿を移築して庫裡(くり)・客殿・書院としました。客殿に「家光誕生の間」、書院には「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」があるのはそのためです。春日局は家光の乳母(めのと)でした。

また、1767年から幕末まで家康の子孫である松平大和守家(やまとのかみけ)が川越藩主をつとめた関係で、藩主5名全員の墓も喜多院にあります。

川越を代表する正月の風物詩「だるま市」

「元三大師(がんざんだいし)」や「角大師(つのだいし)」、「豆(摩滅)大師(まめだいし)」などの通称がある良源は、2本の角をはやして鬼のようになることで疫病を追い払ったことから、厄除けの大師として信仰されています。毎年、命日の1月3日には「初大師」という縁日が開催されていますが、明治時代のはじめころから縁起物の七転び八起きだるまを販売する「だるま市」も開催されるようになったようです。現在では、毎年数10万人が訪れる人気のイベントになっています。

「だるま市」で販売されるだるまは高崎だるまが多いですが、埼玉県は高崎に次ぐだるま生産地のため、川越の多摩系だるまや岩槻の越谷系だるまも販売されています。川越だるまは眉に「寿」の字が入っているのが特徴。明治時代に縁日を取り仕切っていた商人によって作られ、一時途絶えましたが、若手だるま職人によって復活し、今日に至っているということです。

江戸時代に疱瘡(ほうそう)(現在の天然痘)除けになるということで赤色で作られるようになっただるまですが、現在はカラフルなものも登場しており、ご利益の内容によって色を選ぶことができます。お店によっては名入れのサービスをしてもらえることも。昨年お世話になった目を入れただるまは「だるま納め所」に納めましょう。

喜多院とあわせて訪れたい仙波東照宮と中院

日光東照宮・久能山東照宮と共に日本三大東照宮に数えられる仙波東照宮。1617年に久能山から日光に徳川家康の遺骸を移動する途中、喜多院で天海が法要を行ったことから、1633年に建てられました。1638年の大火で焼失しますが、1640年、三代将軍家光の命により、中院があった場所(境内の南側)に移転・再建されました。本殿の中には徳川家康の騎馬像を安置。建物全体が国の指定重要文化財となっています。

中院は、江戸時代に喜多院が隆盛するまでは無量寿寺の中心的な役割を果たしていました。島崎藤村にゆかりのあるお寺で、義母・加藤みきの墓がある他、藤村が義母に贈った茶室「不染亭」も残されています。円仁が無量寿寺を創建した際に京都から茶を持ち込み栽培したことから、「河越(川越)茶・狭山茶発祥の地」としても広く知られ、さらにはしだれ桜の名所としても有名です。

紅葉でも有名な喜多院の見どころは他にもたくさん

1782年から約50年かけて作られた538体の五百羅漢は、酒を酌み交わしていたり、腰をマッサージしてもらっていたり、人間味(?)たっぷりで見ていて飽きません。干支にまつわる羅漢もあるので、自分の干支の羅漢を探してみるのもいいでしょう。

新河岸川と共に、桜の名所としても知られる喜多院。シーズンには「春まつり」も開催されます。さらには秋の紅葉も見事。境内全体が赤や黄色の落ち葉のじゅうたんに覆われます。境内にはだんご屋さん、周辺にはカフェなどが点在しているので、歩き疲れたら一休み。蔵造りの街並みと合わせ、セットで訪れたい観光スポットです。

※2019年11月現在の情報です